虎は狩りが苦手

真面目にふざける

維新

先日、大阪府知事選挙が終わった。

政治にうといので、YouTubeなんかでいろいろ見てみた

 

「弱者に手を差し伸べずして何のための政治なんだ」

「権力や自らの利益を捨てられない者に政治を任せてよいのか」

なんて言葉もあり、ほぅほぅなんて思っていたら過去の思い出がよみがえってきた。

 

 

いまから20年以上前、小学生の頃だった。

経験のある方も多いとは思うが、当時校内で大きいほう(う〇こ)をすることは

かなりリスキーな行動であり、それまでに築き上げた権力、信頼、人気までもが

奈落の底へと落ちる危険をはらんでいた。

 

当時の私はありがたいことに幼馴染のおかげで特権階級に属していた。

この立場ともなれば有事(う〇こ)の際には見張りと門番がつき

安心して自由に用を足せる、というトイレ貴族としての地位が手に入るのだ。

小学生にとってそれは、安心安全を約束された強大な権力なのだ。

 

世の中は、見た!見られた!の熾烈な争い...動乱の時代である。

戦に敗れた(見られた)ものには容赦のない制裁(拡散される)が加えられる。

しかし勝者(見た)だからと言って安心はできない、明日は我が身。

まさに血で血を洗う地獄絵図。阿鼻叫喚。

 

そんな世の中の混乱を目の当たりにし

このままで本当によいのか? この戦に何の意味があるのか?

権力にあぐらをかいて見ぬふりは人間としてどうなのか?

この国の行く末は? 民衆はみな大腸を痛めているのだ。

 

民衆が大腸に不安を抱えた国家は衰退していく。

今となれば常識だが、当時はまだそのような思想すらも無かった時代である。

 

誰かがやるしかないのだ。

そんな思いに駆られ、この国を変えなければと思った。

誰もが平等に用を足せる世の中へ天下統一。

覚悟はいいか?俺はできてる。

 

だが世の中を変えることは想像以上に難しい。

何百年と続いてきた世のしきたりはそう簡単には変わらない。

”このつまらぬ戦をやめよ!みな自由と平等のもとに用を足すのだ!”

 

一人がこう訴えたところで変わるものではない。

同志を増やす必要がある。

 

まずは特権階級であるトイレ貴族たちから説得することにした。

「民衆がどうなろうと、我々はこの戦に巻き込まれないのだから波をたてるな」

「お前もこの権力を手放すことになるのだぞ」

貴族からの反応はこのような物だった。

 

貴族たちにとって、どうやら私は”自分たちの利権を脅かす危険分子”と

捉えられたようだ。

開国を叫んだ吉田松陰はきっとこのような思いをしたに違いない。

「情けない」これが我が国の現状か。愕然とした。

 

一度手にした権力を簡単に放棄することは難しい。

それならば”トイレ弱者”すなわち民衆から先に説得するのが得策である。

 

それからというもの、自由にう〇こができる世界がいかに素晴らしいか。

腸に優しい世界とは何か?腸活を!などと民衆にむけて説いていった。

「言うてることはわかるけど...」皆、公に賛同するわけにもいかない。

無理もない、それが”当たり前”の世の中なのだから。

 

このままでは国は変わらない。

導き出した結論が”頭をおとせ”だった。時の将軍、冒頭で話した幼馴染。

その将軍はこの国において絶対的な存在である。

彼が動けばトイレ貴族たちも無下にはできまい。

 

彼を説得することができればこの国を動かせる!

私は彼に、この国の現状、誰もが平等になる未来、クワガタがよくとれるポイント

など真剣に世の中の”あるべき姿”を説いた。

私の話を聞き終わり、彼は静かに言った「ノコギリクワガタは木の穴におるよ」

 

その日をもって

”この国におけるすべての人間が自由にう〇こをしてよい。これを妨害及び迫害する

ものは打ち首獄門。併せて、貴族のみに限られた見張り門番制度は廃止する。”

という号令が発せられた。

 

民衆にトイレが返還された瞬間であった。

これが世にいう「大便奉還」である。

 

しかしながら法だけでは縛れないのが世の常。

表向きは平穏な日常が訪れたように見えたが、いまだ根強く残る思想。

「やっぱ恥ずかしい...」いまだに民衆は本当の意味で解放されてはいなかった。

だがそんなことは最初から分かっていた。

 

最後に一つ、やらねばならない大仕事が残っている。

間違えれば自らが失脚しかねない危険な賭け。

でも”世の中を変える”そう決意した時から、無傷で事を成せるとは思っていない。

ここまで来ればもうやるしかないのだ。

 

数日後、この国に属するすべての人間がある城へ招集された。

体育館と呼ばれるこの城は、夏は暑く冬は寒い。

この世とあの世の境目のような場所である。

全国民が一堂に会する場所はここしかない。好機!

 

”こうちょう”と呼ばれるその者が何か言おうとしたその刹那。

鯉口を切り、柄に手をかける。「う〇こして来まーす!」神速の抜刀。

後にその場にいた全員が「全く見えなかった」と口を揃えた。

群衆をかき分けトイレに赴くその姿は後世まで語り継がれることだろう。

 

いくら理想を掲げたところで、自分でやって見せねば人の心は動かない。

口先だけで「学校で大きいほうは恥ずかしくないよー」と述べたところで

簡単に見透かされる。

 

それ以来、じわじわと大人口は増えていった。国は栄えていった。

いまや校内で”大きいほう”をすることが当たり前の世の中になりつつある。

しかし忘れてはならない。

時代に翻弄され、散っていった同志たちが確かにいたことを。

 

弱者のための政治

自らの利益をすてる

 

こういうことかな

ちがう?

あ、そう

 

 

さようなら

さようならの語源は「左様ならば」

 

別れの言葉ではない

 

「それならば」という接続詞であるとか

 

ブログ? いまさら? 何のために?

 

そう言われたのでブログをはじめることにした。

 

昔からどうもこのての言葉には反抗したくなる。

 

左様ならば